どうも、こんにちは
合気道合心館京都の小川です。
石田梅岩(いしだばいがん)という名前を聞いたことありますか?
道徳と経済を両立する日本的経営の元祖と言われる人物です。
京都御所南道場の近くに、梅岩の学派である石門心学発祥の地の石碑があり、以前から気になっていました。
お盆休みの中に、梅岩の著書「都鄙問答(とひもんどう)」を読んでみましたので、簡単にご紹介をしたいと思います。
「石田梅岩(いしだばいがん)」とは?
石田梅岩は江戸中期を代表する思想家で、石門(せきもん)心学の創始者です。
11歳で京都に出て、丁稚奉公(でっちぼうこう)して以来、長く商人として働きます。
梅岩は小さな頃から、求道的な性格の持ち主でした。
商人として働きながら、同時に独学で神儒仏の諸思想を研究し、人の生きる道を探求し続けました。
35歳頃に独学してきた思想に迷いが出てきます。
答えを求めて師匠を探すうちに、儒仏に通じた小栗了雲(おぐりりょううん)に巡り会い、さらに修行にはげみます。
40歳のときに、いったん開悟しましたが、さらに1年あまりの修行つみ自性見識を離れた境地に達しました。
そして、43歳で商売から引退をして、45歳の1729年より京都市の自宅で、自身の思想を教える受講無料の塾を開きます。
はじめは塾生も少なかったが、その教えの深遠さと梅岩の誠実な人柄と相まって庶民の間に広まっていきます。
石田梅岩の教えは「石門心学」と言われ、弟子の手島堵庵(てじまとあん)らの布教活動によって各地に広まり、近世思想界に大きな影響を与えました。
石門心学を教える心学講舎は最盛期にも全国に173カ所あったそうです。
時代背景「士農工商」 商売は卑しい仕事?
江戸時代の身分制度は「士農工商」と言われます。
一番えらいのが、武士で、その次に農民、その次に職人、そして商人は一番下の身分でした。
自分で何も作り出さず、物を横に流すだけで、利益を取る商人は卑しいという考えが主流でした。
(これ江戸時代の公式な学問である朱子学の影響という説があります。)
このような時代背景のなか、石田梅岩は商売で利益を得る事は、正しい事なのだと肯定しました。
ただし、その利益は梅岩の考える商人道(正直・勤勉・倹約)にそって、得た利益でないと長続きはしないと説いています。
石門心学の3つの思想
石門心学はどのようなことを教えていただのでしょうか?
ここでは石門心学の代表的な3つの思想に関して、ご紹介いたします。
①正直(しょうじき)
梅岩は「まことの商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり」と言っています。
つまり、まずはお客さんや取引先のことを思い、そして自分のことを思うということです。
また、「此正直が行われれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし」とも言っています。
共存共栄というのが、商売においては重要であるという事です。
日本で最初にCSR(企業の社会的責任)の考え方を唱えたのは石田梅岩だと言われています。
②勤勉(きんべん)
一生懸命に働くことが大切だと梅岩は言います。
それはただ商売をうまくいかせるだけでなく、勤勉に勤めることにより、人間は幸福になるという考えが根底にあります。
梅岩は、人は労働によって食を得るようにできているし、それを幸せと思う心をもっています。
なので、人は苦労しながらも、勤勉に仕事をすれば「心は安楽になる」と説いています。
現代でよく言われる、仕事は収入を得るために行うもので、余暇をいかに充実させるかという考えとは
少し違う、かつての勤勉な日本人の仕事観は、梅岩の影響があるとも言われています。
③倹約(けんやく)
私たちは「倹約」と聞くと、ケチだという印象を受けますが、梅岩のいう「倹約」は少しニュアンスが違います。
自分のためにお金をケチるという意味ではなく、「物の効用を尽くす(※)」ことです。
(※)物を簡単に捨てずに大切に使い切る。
梅岩は「世界に三つ要る物を二つにてすむようにするを倹約と言う」とも言っています。
MOTTAINAI(もったいない)に近い意味だと思います。
今、最も必要とされている持続可能な開発目標につながる考え方になります。
また、倹約をすることにより、人間が本来もっている「正直」という徳を取り戻すことができると梅岩は説いています。
世の中のためにも、自分のためにもなるのが倹約なのです。
■石田梅岩ほか 江戸時代の思想
石門心学(せきもんしんがく)の歴史
1)創始時代 (1729~1763年)
石田梅岩が自宅を講義場として活躍し、心学思想の原典とも言うべき『都鄙問答』などを刊行した。
また、斉藤全門・杉浦止斉・富岡以直・慈音尼兼葭・手島堵庵らを養成し、後の心学隆興の基礎を固めた。
2)興隆時代前期 (1764~1786年)
手島堵庵の活動が中心となり、心学舎(心講舎)の設立普及を図った。
町民だけでなく、農民・職人・武家に布教の道を開き、女性や子供向けの教化方法や教訓書が生まれた。
3)興隆時代後期(1787~1803年)
京都では手島和庵・上河淇水が明倫舎の舎主となり、江戸では中沢道二が参前舎を興し、活動範囲を広げた。
幕府や諸藩が領民教化政策を進めた時期に重なったため、大名や旗本など上流階級に支持が広がり、心学教化運動の黄金時代となった。
4)強勢分裂時代(1804~1829年)
朱子学に基づいた心学を求めた淇水と、神道に基づいた心学を求めた大島有隣の間で対立が深まった。
5)衰退時代(1830年(天保元年)~1867年(慶應3年))
二宮尊徳の報徳教・大原幽学の性理教といった経済活動の改革構想を伴う社会教化運動、富士講・黒住教・金光教・天理教などの活発な動きに押されて、心学は衰退する。
京都の柴田鳩翁の活動や広島心学の勃興も心学復権には及ばなかった。
現在
講舎の流れを汲む心学明誠舎が明治以降も大阪市を中心に活動しているほか、現代企業の経営者との共通点を見出したり、企業の社会的責任(CSR)といった現代のビジネス倫理の先駆と捉えた解説・研究書が刊行されている。
石田梅岩の代表作「都鄙問答(とひもんどう)」
都鄙問答(とひもんどう)は、石田梅岩の商売の思想をまとめた書物です。
京都にいる梅岩に対して(都)、田舎の人間(鄙)が質問し、答えるという対話形式をとられているため、誰でも分かりやすく、読みやすく書かれています。
(梅岩が書いたもう一つの書物「倹約斉家論」がありますが、都鄙問答の方が有名です。)
■都鄙問答(とひもんどう)
『都鄙問答』は松下幸之助氏が座右の書とし、「経営や仕事に行き詰まったら読みなはれ」と他の人にも勧めていたといいます。
また、京セラ創業者の稲盛和夫氏も「石田梅岩が私に与えてくれたものは計り知れない」と述べ、福沢諭吉や渋沢栄一にも大きな影響を与えています。
しかし『都鄙問答』は原文が難解で、現代人に読まれる機会は限られていました。
本書は史上二冊目となる全文現代語訳。
江戸期、石門心学の創設者・石田梅岩が門弟や士農工商の枠を超え、多くの人と交わした問答が収録されています。
「人はなぜ祈るのか」「人の性は善か悪か」といった根源的な問いに始まり、商人の心得、読書の仕方、息子を医者にと考えている親への助言など、そのやりとりは示唆に富みます。
不正な手段で儲けることを厳しく戒め、「正直な商人道」を貫くようにと説いたその教えは「日本のCSR(企業の社会的責任)の原点」として、今日高く評価されています。
企業のあり方が問われる現代こそ、『都鄙問答』の精神を学び直す絶好の機会と言えるでしょう。
引用:Amazon
【後編】士魂商才「石田梅岩(いしだばいがん)」とは?名言と資本主義の精神
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