どうも、おがわです。
猫の妙法や天狗芸術論を読んでいて、「浩然の気(こんぜんのき)」という言葉を知りました。
武道家のハシクレとして、知っておきたいと思い、詳しく調べてみました。
「浩然の気(こうぜんのき)」とは?
「浩然の気」とはどのようなものなのでしょうか?
色々な辞書で調べてみました。
気という形にはないものだからか、各辞書ごとの若干の説明の違いはありますが、共通する内容を3つご紹介いたします。
①孟子(もうし)が説いたとされる大きな「気」
浩然の気は孟子(もうし)が説いたとされます。
孟子は中国戦国時代の儒学者で、性善説を説き、仁義による王道政治を目指しました。
孟子の教えをまとめた『孟子』の中で、孟子は弟子の公孫丑(こうそんちゅう)から質問をされ、「浩然の気」の大切さについて教えている様子が書かれています。
詳細はこの後に解説します。
②天地の間に満ちるほど大きな「気」
浩然の気は天地に満ち溢れるほど、大きな気だとされています。
浩然とは水が満ちてあふれ出している様子の意味。
つまり、それくらい天地の間に満ち満ちている大きな大きな気という事です。
この浩然の気に関して、色々な解説を読みましたが、「天地にもともと満ちあふれている気」と「人間の内部から出て、天地に満ちる程、大きくなった気」という二つの認識があります。
いずれにせよ、とてつもなく大きな気という点では共通しています。
③正しい心から出てくる「気」
浩然の気は正しい心(道徳心)がないと出てこないとされています。
天狗芸術論の中で、剣術に悩むテングたちに大テングは、私利私欲をなくし、心を綺麗にすることが、気を養うことだと説明しています。
浩然の気を養うには、私利私欲をなくした、正しい心を持つことだということです。
何か、特別な鍛錬法があるわけではないということですね。
・・・となると
浩然の気は天地にもともとから溢れている気に、自らを合致させるような意味なのかもしれません。
合気道の開祖植芝盛平先生も自らと「天地と一体とする」ということを言われていますし・・・。
まー、僕にはまだまだ分からんです💦
『孟子』公孫丑章句上より ~孟子と弟子の公孫丑のやりとり~
孟子の言行録である『孟子』の公孫丑章句上より、孟子と弟子の公孫丑(こうそんちゅう)のやりとりをご紹介いたします。
公孫丑のいう告子(こくし)は、孟子と同じ時代の思想家で議論を戦わせたライバル的なヤツです。
性善説の孟子に対して、告子は人間の本質は水みたいなもので、環境などで良くも悪くもなるので、
人は生まれながらに「善」か、「悪」かなんて
そんな議論は「無駄!無駄!無駄!無駄!」と言いました。
・・・それはさておき
ある日、弟子の公孫丑は孟子にこんな質問しました。
(以下、『孟子』からの引用です。)
と、孟子は長々と答えました。
告子へのうっぷんが相当、溜まっていたのでしょうか??
要するに、告子は義が理解していないので、浩然の気を養えていない。
全然、あかんわ!
ということです。
江戸時代に武道指南書における「猫の妙術」「天狗芸術論」での浩然の気
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■猫の妙術
【原文】
「豁達至剛にして、天地にみつるがごとく覚ゆるものは、皆気の象なり。孟子の浩然の気に似て、実は異也。」
【現代語訳】
あなたが、何のこだわりもなく実に剛健で、まるで天地に充満するかのように感じたものは、すべて気の現象です。
孟子の浩然の気に似てはいますが、その実は異なります。
■天狗芸術論
【原文】
実は心体不動にしておのれをうしなはず、浩気身体に充つるときは、毎も我に先あり。
人より先へ打ちつけんと心を用ふるにはあらず。
【現代語訳】
実は、心の本体が動揺しない状態で自分を失わず、浩然の気が心身に充満するような時は、いつも我が方に先があるのである。
【原文】
心を修すると気を修すると二事にあらず。故に孟子浩然の気をやしなふの論、ただ、志を持するにあつて、別に養気の工夫なし。
【現代語訳】
心を修練することと気を修練することとは別の事ではない。だから、孟子の浩然の気を養う論は、ただ志を持するということだけを説き、別に気を養うための工夫は論じていないのである。
引用:天狗芸術論・猫の妙術 全訳注 (講談社学術文庫)
■天狗芸術論・猫の妙術 (講談社学術文庫)の浩然の気の注釈
【猫の妙術】
■浩然の気・・・浩然は水の盛んに流れるさま、転じて心が広くゆったりしているさま。浩然の気は、天地の間に満ち満ちている非常に盛んな精気、それは同時に俗事から解放された屈託のない心境を意味する。
【天狗芸術論】
■浩気・・・浩然之気の意。浩然は水の盛んに流れるさま、転じて盛大流行の意もある。浩然之気は、天地に流行する盛んな精気の意。
引用:天狗芸術論・猫の妙術 全訳注 (講談社学術文庫)
「浩然の気」の意味は??辞書・辞典からの7つの引用
「浩然の気」をいろいろな辞書や辞典で調べてみました。
内容を引用させていただきます。
「浩然の気は」目に見えない概念なので、説明が難しい部分があり、辞書ごとに部妙に違う表現になっています。
浩然の気は「天地にもともと満ちあふれている気」と「人間の内部から出て、天地に満ちる程、大きくなった気」という二つの認識があります。
いずれにせよ、
とてつもなく大きな気という点では共通しています。
あなたはどっちだと思いますか??
1)goo辞典
天地の間に満ちている、この上なく大きくて強い気のこと。
これが人の心にやどると、広く豊かで大らかな気持ちとなり、公明正大で何ものにも屈しない道徳心となる。
引用:goo辞典
2)ブリタニカ国際大百科事典
中国,戦国時代の儒家,孟子の説いた説。
人間の内部より発する気で,正しく養い育てていけば天地の間に満ちるものとされる。
また,道義が伴わないとしぼむとされ,道徳的意味を強くもつ概念である。
いわば道徳的活力とでもいうべきものであるが,多分に生理的なニュアンスをはらむ。
のちに,儒家の修養論を形成する一要素として重視された。
引用:ブリタニカ国際大百科事典
3)日本大百科全書
人間内部から沸き起こる道徳的エネルギー。
これは自然に発生してくるもので、無理に助長させず正しくはぐくみ拡大していけば、天地に充満するほどの力をもつとされる。
中国、戦国時代の儒者である孟子(もうし)が説いたもので、『孟子』の「公孫丑(こうそんちゅう)」上篇(へん)にみえる。
気とは、もと人間のもつ生命力、あるいは生理作用をおこすエネルギーのようなものを意味するが、孟子はこれに道徳的能力をみいだした。
仁義(じんぎ)に代表される徳目は人間の内部に根源的に備わっているものとし、それが生命力によって拡大されることを「浩然の気」と表現したのである。
引用:日本大百科全書
4)デジタル大辞泉
《「孟子」公孫丑上から》
1 天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気。
2 物事にとらわれない、おおらかな心持ち。「浩然の気を養う」
引用:デジタル大辞泉
5)世界宗教用語大辞典
『孟子・公孫丑上』に「我善く吾が浩然の気を養う」とあるのによる。
天地間に充満している非常に大きく強い気(至大至剛の気)をいう。
自分の行動が正しいと、この気が身中に満ち、不屈の道徳的勇気となるとする。
浩気とも。
明け方近くの清澄な大気をも意味し、呼吸法とも関係し、修養法ともされる。
引用:世界宗教用語大辞典
6)Wiktionary日本語版
天地に漲る、活力や生命力の源となる気。公明正大で恥じるところのない心持ち。
物事に囚われない大らかな気分。
うちの小供(こども)があまり騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然の気を養うのが例である。(夏目漱石『吾輩は猫である』、1905-06年)
「かうして、さういふものの上に自分が立つてゐると思ふとだね、なんとなく、花やかな気持ちになるんだ。所有慾といふものから全く離れてだよ。可笑しいもんだね」「それや、さうかも知れんね。それがつまり、浩然の気といふんだよ」(岸田國士『屋上庭園』、1926年)
7)福島みんなのNEWS
何ものにもとらわれないのびのびとした気分を言います。
出典となっている『孟子』公孫丑上では人が道義にかなった行動をし、天地に恥じるところがなければ、自然に心に生じてくる、大きく強い道徳的勇気・精神のことを意味しています。
【浩然】は、広く大きいようす、ゆったりとしたさまをいいます。
引用:福島みんなのNEWS
日本文学に見る「浩然の気」の6つの使用例
現代ではあまり「浩然の気」をいう言葉は聞いたことがない人が多いのではないでしょうか?
昔は普通に使われていたのか、古い日本文学には登場します。
その中から6つほどご紹介いたしますね。
①「吾輩は猫である」
②「猿飛佐助」
・・・を喜ばしたのは、師もまた洒落るか、さればわれもまた洒落よう、
軽佻と言うならば言え、浮薄と嗤うならば嗤え、吹けば飛ぶよな駄洒落ぐらい、
誰はばかって慎もうや、洒落は礼に反するなどと書いた未だ書も見ずという浩然の気が、天のはしたなく湧いて来たこと
引用:織田作之助 「猿飛佐助」
③「禁酒の心」
私は禁酒をしようと思っている。
このごろの酒は、ひどく人間を卑屈にするようである。
昔は、これに依って所謂浩然之気を養ったものだそうであるが、今は、ただ精神をあさはかにするばかりである。
近来私は酒を憎むこと極度である。いやしく・・・
引用:太宰治 「禁酒の心」
④「俳諧の本質的概論」
・・・思無邪であり、浩然の気であり、涅槃であり天国である。
忙中に閑ある余裕の態度であり、死生の境に立って認識をあやまらない心持ちである。
「風雅の誠をせめよ」というは、私を去った止水明鏡の心をもって物の実相本情に観入し、松のことは松に、竹のことは竹・・・
引用:寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
⑤「日本男子論」
・・・即ち我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神一度び定まるときは、その働きはただ人倫の区域のみに止まらず、
発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、
浩然の気外に溢れて、身外の万物恐るるに足るものなし。
談笑洒落・進退自由にし
引用:福沢諭吉 「日本男子論」
⑥「屋上庭園」
「かうして、さういふものの上に自分が立つてゐると思ふとだね、なんとなく、花やかな気持ちになるんだ。
所有慾といふものから全く離れてだよ。
可笑しいもんだね」
「それや、さうかも知れんね。それがつまり、浩然の気といふんだよ」
引用:岸田國士「屋上庭園」
完全に蛇足ですが・・・
「浩然の気」という歌がYOUTUBEにありました。
合気道の稽古の中で「浩然の気」を養いたい。
おそらく、合気道開祖が植芝盛平先生が言われている「気」は浩然の気のことなのだと思います。
だとしたら、我々合気道修行者はこの「浩然の気」を稽古の中で養っていくことが大切なのではないでしょうか?
なんとか養いたいなと・・・。
しかし、どのように浩然の気を稽古の中で養えばいいかは、私にはまだまだ分かりません。
もしかしたら、天狗芸術論のこの言葉が何かヒントになるかもしれません。
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