どーも、おがわです。
前回に続き、岡倉天心の人生を紹介するブログになります。
近代日本美術の父と言われる岡倉天心はなぜ「茶の本」を書いたのでしょうか?
(お恥ずかしながら、私は岡倉天心は茶道の人だと思っていました💦)
今回はそのあたりを相変わらず、長々と書いていきたいと思います。
ではでは・・・
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茶の本の作者 岡倉天心(おかくらてんしん)とは?
岡倉天心(1863-1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。
その活動には、日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、目を見張るものがあります。
また、天心は自筆の英文著作『The Book of Tea(茶の本)』などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動しました。
引用:天心記念五浦美術館
■岡倉天心の来歴
時代背景 ~廃仏毀釈を経て、西洋文化崇拝の明治時代~
天心が生きた明治時代に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動がありました。
「廃仏毀釈」とは仏教を排除する運動のことです。
「廃仏」とは仏を廃(破壊)すという意味です。
「毀釈」とは釈迦の教えを壊(毀)すという意味です。
この運動がおこる背景には、民衆が長く力を持っていた仏教へのうっぷんが溜まっていたというのがあります。
そこに大政奉還があり、明治政府は明治天皇を中心にさらに、国の力を強化したいと考えました。
その為に、神道を国教にしたいと・・・。
神道の天皇を中心にした宗教ですから、これを国教にしたかったんですね。
しかし、日本の文化や思想は(今もそうですが)神道と仏教がの「ねるねるねるね」のように混ざっています。
ねるねるねるねでは神道を国教化できんと・・・
まずは日本の文化や思想をねるねるねらない状態にしないといけないんですね。
※みんな大好き「ねるねるねるね」 う、うまい!!!
それで、神道と仏教をはっきり分けるのが目的で、明治政府が出したのが「太政官布告」です。
これを通称、神仏分離令と言います。
要は、日本文化思想を、神道と仏教にぶった切ったわけですね。
そして、「大教宣布」を出すことにより、神道を明治新政府の国教にしようとしたわけです。
明治政府としては神道を国教にしたかっただけで、仏教を弾圧しようとしたわけではない点が重要です。
①太政官布告(通称:神仏分離令)
・・・神道と仏教がなんとなく混ざっているのが日本文化ですが、神道と仏教をはっきり分けることを目的として命令
②大教宣布
・・・神道のトップである明治天皇の力を強化するために、神道を国教と定めた命令
こんな感じで明治政府は、神道の国教化を進めました。
しかし・・・
この流れを「仏教をやっちまえ!」と過大解釈(勘違い?)して、神職者や民衆が仏像とかをぶっ壊しだしました。
(神道を国教にしたいだけで、仏教を弾圧する意味はなかったようです。)
長く力も持っていた仏教に虐げられていた人々の不満が募っていた背景があるようです。
歴史的に貴重な仏像も多く壊され、廃寺になったお寺少なくありません。
悲しい事件ですね。
廃仏毀釈を経て、西洋文化崇拝の明治時代において、仏像など日本の伝統的な「美」に魅せられ、保存、保護に奔走したのが、後述のアメリカ人のアーネスト・フェノロサや岡倉天心なのです。
明治維新後の廃仏毀釈に関しては、このような本も出ています。
詳しく知りたい方は読んでみてください。
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「岡倉天心」はなぜ英語ペラペラなのか?
岡倉天心は「文明開化」の時代に、海外との交流が盛んであった開港地である横浜に生を受けました。
そして、6歳よりジェイムズ・バラの塾で英語を学びだしました。
今でいうと年長さんから英語を習い始めたということです。
早いですね。
今の感覚でいうと、さほど早いように思いませんが、当時は幕末が終わり、明治になったばかりの時代です。
天心は幼い頃より、母国語に近い感覚で、英語に触れることができたのです。
天心はその英語力にさらに磨きをかけていきました。
10歳のころ、家族で上京し、天心は英語力を更に身に着けるため、東京外国語学校に入学します。
そして、12歳になると、東京開成学校(現・東京大学)に入学し、政治学や理財学を学びました。
その英語力をかわれて、日本の伝統美術を守るために奮闘した恩師フェノロサの通訳として、行動を共にするようになります。
それが天心が古美術への関心持つきっかけとなります。
また、後に天心が書いた「東洋の理想」「日本の目覚め」「茶の本」はもともと英語で書かれ、西洋諸国で発刊されました。
とくに「茶の本」は大ヒットし、今まで野蛮で未開拓な国だと思っていた日本及び東洋の文化レベルの高さに驚いたそうです。
天心の英語力は、日本文化(東洋の文化)を西洋諸国に伝えるためにも役立ちました。
岡倉天心が英文で書いた主著三部作(付『東洋の目覚め』)を収録。
「茶」の芸術と哲学を語り、日本文化の精髄を説く『茶の本』、日本の興隆は江戸期からの潜在力で、東洋文明の発揚とした『日本の目覚め』、「アジアは一つ」であり、孔子の中国文明もヴェーダのインド文明も日本に継承され開花したとする日本美術文化論『東洋の理想』。
明治期の日本は、中国やインドともども西欧列強の圧迫に苦しんでいた。天心は西欧の力に対抗し、これらの著書で西洋思想に対する東洋思想の優位を説いて東洋の再生を宣言する。
初版刊行以来各国語に翻訳され、欧米社会に大きな衝撃を与えた不朽の名著。
引用:Amazon
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天心は生涯を通じて、多くの偉業を行いましたが、その根底には常に幼い頃より身に着けた英語力がありました。
幼い頃から英語勉強しておくべきですね。
のちに天心は英語力が非常に役立ち
「やっててよかった!ジェイムズ・バラ式!」
と叫んだとか叫ばなかったとか
言われたり言われなかったりしています。
(嘘です💦しかも真っ赤な)
芸術家でなかった「岡倉天心」はいかに日本美術に魅せられたのか?
明治13年に東京大学を卒業した岡倉天心は、文部省に就職します。
そこで、美術行政の創世記にかかわる仕事をします。
明治16年に天心は上司の九鬼隆一(くきりゅういち)に従い、日本全国の古社寺調査を行いました。
そういった仕事の中で、日本美術の伝統的な美しさに魅了される共に、日本美術の伝統を守っていこうとする志が築かれました。
明治19年にお雇い外国人であり、東京大学でも教鞭をとっていたアーネスト・フェノロサと共に、美術取調委員として欧米各国の美術教育情勢を視察するために出張することになります。
欧米より帰国した天心は、東京美術学校の開校準備に奔走します。
※東京美術学校は現在の東京藝術大学です。
そして、明治23年、わずか27歳の若さで同校二代目の校長になることになります。
天心は校長として、新しい日本芸術の創造に力を入れ、横山大観、下村観山、菱田春草ら若き芸術家を育成していきました。
「岡倉天心」に影響を与えた人たち
岡倉天心は多くの人から影響を受け、多くの人に影響を与えています。
その中から代表的な4人をご紹介いたしますね。
①アーネスト・フェノロサ
岡倉天心に多大な影響を与えた師匠ともいえる人物です。
アメリカ合衆国の哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人です。
廃仏毀釈を経て、また西洋文化崇拝流れの中で見捨てられていた日本美術を高く評価しました。
そして、日本の美術を深く、研究を進め、広く紹介しました。
フェノロサは日本美術にとっての恩人ともいえ、高く評価されています。
東大で教鞭をとっており、その時の生徒に岡倉天心がいました。
その関係で、天心はフェノロサの助手として、日本美術を守るために奔走するのでした。
ちなみに「国宝」(national treasures)の概念は彼が考えたとされています。
余談ですが、柔道を創設した嘉納治五郎先生も東大出身で、フェノロサの授業を受けて大きな影響を受けたそうです。
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②九鬼隆一(くき りゅういち)
九鬼 隆一(くき りゅういち)は明治時代から昭和初期にかけての日本の官僚です。
簡単にいうと、ごっつ偉いさんです。
天心の上司だった人物です。
共に日本文化の守るために働いたが、二人とも癖が強い性格だったようで、性格面での相性は必ずしも良好でなかったと考えられています。
のちに、岡倉天心と九鬼の妻との不倫や「美術学校騒動」などで関係は決裂します。
天心と九鬼の妻の不倫の原因の一つとして、九鬼自身の女遊びの激しさをあげる人もいます。
③横山大観
横山大観(よこやま たいかん)は、天心の弟子の中でも一番有名かもしれません。
芸術に詳しくない私でも知っている日本画家です。
東京美術学校を卒業後、助教授として働いていたが、校長の天心が失脚をした際に、一緒に助教授の職を辞めました。
そして、天心と共に、新しい美術の追及のために、日本美術院創設に参加しました。
菱田春草たちと共に「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立しました。
大変な酒好きで、人生の最後の50年は、ご飯をほとんど食べず、酒と肴だけで口にして生きていたそうです。
それでもアルコール中毒にはならず、大病もせずに90年近い寿命を全うしました。
天心の死後、廃れていた日本美術院が再興しました。
④タゴール
アジア人として初めて、ノーベル賞を受賞したタゴールも天心に影響を与えた一人です。
明治34年、岡倉天心は東洋の文化の起源を探るために、インドに渡りました。
その際に、岡倉天心は、カルカッタでタゴールと出会っています。
二人は互いの国の民族、文化、芸術、思想を認め、尊重し、共感し合うなど、深い友情で結ばれました。
そして、その友情は天心が亡くなるまで、続きました。
天心が亡くなったのち、タゴールは日本に来た際、五浦の天心邸を訪れました。
その際、六角堂にこもり瞑想をしたそうです。
岡倉天心はなぜ茶の本を書いたのか?
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岡倉天心は日本を含む、東洋の文化のレベルの高さを西洋諸国に知らしめるために、英語で著作を発表しています。
「茶の本」はその中の最大のヒット作です。
私も誤解していたのですが、「茶の本」は茶道の手順の本ではなく。お茶を通じて、日本文化の根底ある思想哲学を、西洋諸国に知らしめる本なのです。
天心の3つの著作は、いずれも同じ目的で書かれています。
①1903年 『東洋の理想』(The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan)
②1904年 『日本の目覚め』(The Awakening of Japan)
③1906年 『茶の本』(The Book of Tea)
■岡倉天心 3つの著作
岡倉天心が英文で書いた主著三部作(付『東洋の目覚め』)を収録。
「茶」の芸術と哲学を語り、日本文化の精髄を説く『茶の本』、日本の興隆は江戸期からの潜在力で、東洋文明の発揚とした『日本の目覚め』、「アジアは一つ」であり、孔子の中国文明もヴェーダのインド文明も日本に継承され開花したとする日本美術文化論『東洋の理想』。
明治期の日本は、中国やインドともども西欧列強の圧迫に苦しんでいた。天心は西欧の力に対抗し、これらの著書で西洋思想に対する東洋思想の優位を説いて東洋の再生を宣言する。
初版刊行以来各国語に翻訳され、欧米社会に大きな衝撃を与えた不朽の名著。
引用:Amazon
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「茶の本」の出版と同時期に、日本美術院の絵画部門を茨城県五浦に移しています。
それに伴い、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らも五浦に引っ越します。
この時代は、横山大観ら弟子にとっては、絵が理解されず、売れず、苦難の時代でした。
文明開化で日本国内でさえ、東洋より西洋諸国の方が、文化レベルが高いと思っている時代です。
東洋文化<西洋文化
その敵陣(は言いすぎですが)の中に飛び込んで行って、日本文化も素晴らしいんだ!と叫ぶことはどれだけ勇気のいることだったと思います。
茨城県五浦 岡倉天心の最後の地
「茶の本」が出版されると同時期に、天心は日本美術院の絵画部門を茨城県五浦の移します。
それに伴い、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山も家族を連れて、五浦に引っ越します。
彼ら弟子にとって、この五浦時代は、絵が理解されず、売れず、赤貧の苦難の時代です。
一応、天心はボストンと五浦を行ったり来たりの多忙なスケジュールをこなしています。
この時代に天心は考えごとをする場所として、有名な「六角堂」を建てています。
太平洋を眺めながら、天心は考え事をしたり、バネルジー夫人にラブレターを書いたりしていたそうです(笑)。
六角堂は、どことなく、茶室に似た、小さいく、シンプルな建物です。
私もコロナが落ち着いたら、行ってみたいですが、今がYoutubeでプチ旅行気分を味わうにとめておきます。
残念
ちなみに、六角堂は2011年に東日本大震災に伴う津波の直撃を受け、土台のみを残して姿を消してしまいました。
今、あるのは、翌年に再建されたものになります。
岡倉天心の最後
天心は50歳の時に体調不良で、療養にために新潟県赤倉温泉に移ります。
そして、死を悟った天心は、その病床から最後のラブレターをバネルジー夫人に書きます。
岡倉天心は50年の人生を駆け抜けるように生きました。
その翌年に、横山大観らが、天心の志を受け継ぎ、日本美術院を再興します。
そして、天心が追い出された東京美術学校(現 東京藝術大学)には昭和6年に弟子の平櫛田中がつくった岡倉天心像が設置されました。
岡倉天心の波瀾万丈の人生を知る映画・本
岡倉天心の人生をえがいた映画と小説をいくつかご紹介します。
自分の使命に懸命に生きた偉人たちの人生には、いつも心打たれます。
■映画『天心』
実は岡倉天心の生涯は2013年に竹中直人さんが主演で映画化されています。
二時間で岡倉天心の人生をギュッとまとめています。
このブログで時代背景など、予備知識をつけてから見ると、二倍楽しめると思います。
おすすめ
■岡倉天心の小説
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■Youtube動画
こちらの動画おすすめです。
熱く岡倉天心について教えてくれます。
こちらのブログもあわせてお読みください。
【前編】「茶の本」の作者 岡倉天心とは?日本美術を信じた男の波乱万丈の人生を紹介
「茶の本」の本編も下記のブログにまとめています。
茶の本 第一章「人情の碗」を分かりやすく要約 ~東洋西洋の融合を目指して~
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