どーも、おがわです。
軽い気持ちで読みだした天狗芸術論ですが、かなり熟読しております。
一回では理解できないので、何回も読んでいます。
老荘思想などの中国古典の基礎知識がないと理解がかなり難しいのかもしれません。
間違っている部分あるかもしれませんが、今の自分のレベルで理解できる(?)ことをまとめていこうと思います。
普段、頭を使わないので、疲れました。
続いて第三章・・・
鍛えに鍛える大テング様・・・
天狗芸術論(てんぐげいじゅつろん)とは?
『天狗芸術論』(てんぐげいじゅつろん)は、佚斎樗山(本名丹波忠明、1659 - 1741年)著の談義本(戯作の一)『田舎荘子』(享保12年(1727年刊)内の一話であり、剣術書(厳密には精神面を説いた書)。
全4巻。題名にある「芸術」とは、「武芸と心術」(本来は、技芸と学術)の意。
兵法書として扱われるが、実技を説いたものではなく、同著者の『猫の妙術』と同様、精神面を説く剣術書といえるもので、「気」と「心」と「道」のあり方を中心に展開する。
山中で剣術修行をしている木の葉天狗達が、修行後、武芸・心術(または学術[3])を議論し合い、その後、大天狗が問いに対し、答えていく形式。江戸期の妖怪としての天狗は仏教と関連した存在であるが、当著では、武芸・心術を儒教的観点から説いていくもので、いわば、天狗が儒学の立場の代弁者ともいえる存在として描かれ、巻之三においては、大天狗が、「仏教については詳しくは知らないが」とまでいわせている。
部分的に仏教の用語も出てくるが、儒教の立場から仏教が語られ、同巻之三には、(儒家の)聖人(中国思想)の道にふれれば、天竺の仏氏(インドの僧侶)も感化される旨の記述がなされ、当著には、道・仏は同じ道=無我無心に至るとしつつも、儒教が優位的に語られている。
最終的に剣術家の夢オチとして終わるが、「天狗がかかわる夢オチ」という点では、「天狗裁き」と通じるものがある。
引用:Wikipedia
第三章の紹介
では、引き続き第三章を紹介していきますね。
この章が一番難解で、内容が濃いかもしれません。
「動いて動くことなく、静かであって静かでない」とはどのような状態?
うむ・・・・
人間は動物というくらいだから、動かないではいられない存在だ。
しかし、いくら日々、忙しく仕事に終われようとも、その「心」の中まで忙しくならず、静かで穏やかでありたいものだ。
人に「心」の本体は、本来、無欲で利己心のなく、ゆったりと落ち着いているものなのだから・・・・。
(人間が本来持っている綺麗な心を「性」と言います。「情」が良くも悪くもなり、人の心を乱す。)
「心」が無欲で利己心のなく、ゆったりと落ち着いている状態とは、道理を活かすのに非常に大切なことだ。
そのような状態を乗馬を行うと・・・
たとえば・・・
上手な乗馬者は、東西に馬を走らせても、心は安泰でせわしいことはなく、その姿も静かでゆれ動くことはない。
その姿は馬と人が一体となっているようだ。
上手な乗馬者が自らの邪心をおされて、馬の性質に逆らうことをしないのだ。
だから、馬も人に手綱を持たれていることを苦痛と思わず、納得して走っていくのだ。
馬は人を忘れ、人は馬を忘れている状態と言える。
逆に、未熟な乗馬者は、自分の思うように馬を扱おうとする思い(我欲)が強く、馬の性質に逆らってしまい、逆に馬を思うように扱えないでいる。
やがて、人も馬もクタクタになってしまうのである。
色々な芸事などで言われる「水月」とは、
結局のところ、我欲を捨てさった「無心」の境地になることで、本来の道理にかなった働きを行う事ができることを、
水が月をうつすことに例えたものである。
静かな水は綺麗に月をうつしだす。
また、月は水にうつると思っていないし、水は月をうつすと思っていないが、水に月はうつってうる。
うつしだす水が複数ある場合も、月はそこにあるだけで、水の大小を選ばす、すべてに映る。
月が光を分けているわけではない。
これから「心」の本来の不思議な作用を知るべきである。
剣術でも同じことが言える
うむ・・・
我欲を捨てさった「無心」の境地になることで、本来の道理にかなった働きを行う事ができることは、剣術も例外ではない。
相手と真剣勝負をする時も、心静かに、相手を憎むこともなく、恐れることもなく、どうこうしようという邪念を起こさない。
そうでありながら、相手が攻撃をしてくれば、それに対して自由自在に対応する。
心が静かでありながら、体は自由自在に動く、それが剣術の境地である。
それは水月(水が月を映し出す)のたとえと同じである。
一方、未熟者は、体が動くときは心が動揺し、心が静かな時は、体が腑抜けになる。
やれやれだぜ・・・
色々な流派に伝わる極意は
「我欲を捨てさった「無心」の境地になることで、本来の道理にかなった働きを行う事」
を違う角度や言葉で伝えていることが多いのである。
諸流派の極意(道理)は同じ
うむ・・・
世の中には多くの剣術流派が存在するが、その極意(道理)は同じである。
極意は同じなのに、なぜ多くの流派が存在するかと言えば、各流派の開祖や、先覚者が修練の経験から、自分が入りやすいと思う扉から弟子を導き入れているだけの事である。
(下のイメージ図のように、剣術の流派とは、道理へ上るためのハシゴと捉えてもいいと思います。)
しかし、各流派の修練の過程で、そのハシゴ(流派)に愛着を覚え、執着して、それこそ道理だと勘違いするものが多い。
そんな剣術家が多いので、方法論の違いで、数多くの流派に分かれていき、それぞれが「こちらがが正しい」「あちらは間違っている」と議論しあっているのである。
本来、「道理」は一つなのだから、のぼるハシゴ(流派の違い)で喧々諤々と議論をすること自体がアホラシイ。
これは学問でも同じである。
老子、仏教、荘子、列子、巣父、許由
彼らの教えは、異なる部分もあるが、いずれも学問を通じて、無我無欲の心の本体を求める。
つまり
目指す頂(道理)は同じである。
道理を悟った聖人は天をいただき、しっかり地に足をつけて歩み、あらゆる分野に精通しているものである。
(一芸は万芸に通じる。極意は同じ)
天下の仁義に従わない者はおらず、孝悌忠信(※)を悪く言うものはいない。
違う学問(宗教)をおさめている者も、仮にインドの仏教とでさえ、道理を悟った聖人の思想にふれれば、従わずにはおられない。
それは、すべての学問の「道理」は同じであるからである。
※孝悌忠信(こうていちゅうしん)・・・真心を尽くし、誠意をもって、父母や兄など、目上の人に仕えること
この世はすべて、物の大本というべきもの(道理)が、上から見下ろしているのである。
したがって
いかなる人も「大道」に背くことはできない。
「心」は「気」の主である。気を綺麗に保つ重要性!
ここまで話を聞いていた天狗の一人が、
このような質問をしました。
うむ・・・
いい質問だ。
たしかに濁った心も、人間に備わった心であり、時にそれを用いる場合もある。
しかし、剣術では技の速さを重要視する。
だから、濁った心を用いず、綺麗な心のみを用いるのだ。
それぞれ用途が違う。
洗濯物を乾かすのに、火を用いて、水を用いないのと同じだ。
人間の心は本来、綺麗で優れたものなのだが、「濁気」が心を覆っているために、道理が見えなくなってしまうのである(上記の図を参照)。
同様に人の性質は本来、聡明なのだが、「濁気」により、道理が見えなくなり、愚かになってします。
すべて、気が清からか、濁っているかで決まる。
心は気の主であるから、気があるところ心は必ず存在している。
気がなければ、心は存在しない。
それくらい「心」と「気」は密接な関係である。
濁った気が心をおおっていて、心が乱れて、道理が見えないときは
まるで、風が激しく、波があれている水の上の舟のようである。
どこに行くかも分からないし、舟の上の人は不安である。
逆に
心をおおう気が清らかになると、道理をよく理解できて、
どのように「気」を錬磨すれはいいのか?
うむ・・・
ぐっどくぇっしょんだ。
それは、ただ気の濁りを除去することだけのことだ。
気の濁りをとれは、人間本来の綺麗な心があらわれ、道理をしっかり見ることができる。
つまり、気の濁りをとることが、そのまま気を錬磨するということだ。
心は綺麗な心と濁った心の二つがあるわけではなく、本来の心はみんな綺麗なものなのだよ。
心は下のイメージ図のように、気の清濁の影響を受けるということなのだ。
同じように、「気」も綺麗な気、汚い気があるわけではなく、もともと一つである。
清濁の度合いが違うだけだ。
だから、気の濁りを取っていかなければならない。
このことを理解しなければ、道理は行われないのである。
※天狗芸術論で説かれている気は、孟子の「浩然の気」です。
浩然の気については、こちらのブログに詳しくまとめています。
ぜひ、併せて読んでみてくださいね。
どのように「心」を修養すれはいいのか?
うむ・・・
これまた、ぐっどくぇっしょんだ。
いや、ぐっあいコミュニケーションビジョンメガネだ。
心には確かに形はないが、7つの感情が存在する。
ともかく
まず、この「心の構造」のイメージ図を見てくれ。
心は言葉で表現することはできないが、人の心には喜怒哀楽など7つの感情が存在する。
それは言葉で説明をすることができる。
あえて「心」を定義するなら、私は
「私利私欲を排し、7つの感情をバランスよく制御し、人に本来備わっている自然の法則に従わせる働きをする器官」
と定義している。
そして、きちんと心が働いているか、客観視するのが「良知」だ。
てめーさえ良ければ良いという、私利私欲が、気を濁らせ、良知の働きを鈍らせる。
「良知」はたいへん、素晴らしいものである。
一方、仏僧は「意」「識」を憎み、そこから離れようとするが、「意」や「識」は決して憎むようなものではない。
それは人が知恵を働かせるのに必要なものである。
ただ、「意」「識」を用い、人が浅知恵を果たらせて、私利私欲で動くことは憎むべきである。
孟子の「木鶏」は、剣術の境地と同じ
うむ・・・
いや、存在しない。
日本でも中国でも昔から、人は気迫と力技で、命をかえりみず戦っていたのだ。
ゆえに、無心になり、天地の気に合致するという「剣術の極意」を記した伝書は存在しない。
しかし、剣術のことを言っているのではないが、荘子の「木鶏」の話は武道の極意と同じ話をしている。
※木鶏に関しては、以下のブログに詳しくまとめています。
剣術の究極原理に秘密はない。
うむ・・・
何もいじわるで秘密にしているわけではないぞ。
剣術の原理は、天地自然の原理、すなわち「道理」だ。
「道理」はあらゆる芸事がいきつく境地なので、私が知っていることが、他の誰も知らないなんていうことはありない。
であるから、秘密にする意味はないのだ。
しかし、もし秘密にする事があるのであれば、他からの言われない誤解を恐れるためか、初心者への指導のためだ。
初心者は早い段階で、道理の事を聞くと、誤解し弊害になることが多い。
なので、道理を秘密にして、ある程度の修練を積ませてから、伝える場合もある。
いずれにせよ、秘密の極意はない、秘密にするのは、指導上の方便であるのだ。
心と気は一体である。
うむ・・・
心と気はもともと一体である。
それは火と薪(たきぎ)の関係に似ている。
そもそも、火自体に大小はない。
薪が不足すれば、火の勢いは盛んにならない。
薪が湿っていれば、火は明るい光を発しない。
人の体の一切の作用は気がつかさどっている。
だから、気が強いものは病気はしないし
病は気からというように、気の弱いものは病気をしやすいのである。
強健であるためには、強い気を養う必要がある。
強い気を養うには、心が明快でなくてはいけない。
剣術の場合も、精神が安定し、気が和み、無心で、自然の法則にしたがい、自由自在に動くことのできるものは、「道理」を悟った達人である。
やはり、始めはこざかしい考えを捨てて、敵を打倒し、鉄の壁といえども打ち砕くという、誰にも負けない強い気がなければ、熟練していき達人の域に到達するのは難しいのである。
そうでなければ、無心と思うものは、ただの空っぽになり、和と思うものは、ただの惰気になってしまうのである。
剣術に限らず、
理論を聞いて、そのまま鵜呑みにするのではなく、自分であれこれ試して自得していくことが重要だ。
それを修業というのである。
第三章の紹介はここまでです。
第四章は次回にご紹介します。
それでは次回につづく
「天狗芸術論」のブログ(全5回)
「天狗芸術論」に関する、ブログを5回に渡り書いています。
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