どうも、おがわです。
宮本武蔵は「五輪書」にて13歳~29歳まで60回以上の真剣勝負に全て勝利したと記しています。
今日はその勝負の中から、代表的なものをいくつか分かりやすく紹介したいと思います。
「たった60回か~」くらいに感じてしまったのですが・・・
よくよく考えると、これ現代武道の試合ではなく、命を懸けた真剣での殺し合いですから
負けたら死ぬわけですよ。
修羅場を何度も潜り抜けた武蔵・・・
そらこんな恐ろしい目つきにもなりますね。
宮本武蔵の闘い(プラスα)年表
時代 |
西暦 | 年齢 | 出来事 |
安 土 桃 山 |
1584 | 1 | 新免無二斎の次男として生まれる(養子という説もあり) |
1596 | 13 | 播磨国で新当流の有馬喜兵衛に勝つ | |
1600 | 17 | 関ヶ原の合戦に参加 | |
江 戸 |
1604 | 21 | 京都で吉岡一門に勝つ |
1607 | 24 | 伊賀の鎖鎌の使い手宍戸某に勝つ | |
奈良で槍使いの僧・奥蔵院に勝つ | |||
1612 | 29 | 巌流島で佐々木小次郎に勝つ | |
1614 | 31 | 大阪冬の陣、翌年の大阪夏の陣に参加 | |
1624 | 41 | 伊織を養子とする | |
1637 | 54 | 島原の乱に伊織とともに小笠原忠真の指揮艦として参加 | |
1640 | 57 | 細川忠利の客分として肥後・熊本に招かれる | |
1641 | 58 | 細川忠利の命により兵法三十五ヶ条を書く | |
1643 | 60 | 霊厳洞にこもり、五輪書を書きはじめる | |
1645 | 62 | 五輪書を完成し死去 |
1歳 新免無二斎の次男として生まれる(養子という説もあり)
宮本武蔵は幼名を新免武蔵(しんめんたけぞう)と言います。
黒田如水に仕えていた一流の暗殺者で、日下無双兵法術者の号を持つ新免無二(しんめんむに)の次男として生まれました。
これに関しては養子として、引き取られたという説もあります。
(日下無双兵法術者とは地上最強の生物という意味ではありません。最強の剣術家という意味ですね。)
少し、やばめのアサシンだった新免無二は武蔵を谷底に突き落としたと言われます。
「獅子は己の子を谷底に突き落とす」という昔話に影響を受けて、武蔵を鍛えようと思ったからだそうです。
しかし、武蔵が根性で這い上がってくると、
今度は「こいつは強くなる、やばい!」と感じ、這い上がってくるたびに、なんども谷底に武蔵を突き落としたそうです。
それからも強い兵法者になるためと、虐待のような特訓をして武蔵を育てたそうです。
もう理解不能なむちゃくちゃぶり・・・
新免無二は周りの人間が自分を習う暗殺者に見えて、人間不信に陥っていたようです。
そして、やがて失踪してしまいます。
13歳 播磨国で新当流の有馬喜兵衛に勝つ
兵法者としてスパルタ教育で育った武蔵のデビュー戦は13歳の時です。
新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利したと「五輪の書」に書かれています。
こちらは13歳の時の武蔵の肖像画です。
ヒゲぼーぼーで髪の毛が逆立っており、とても13歳とは思えません。
なぎら健壱と同い年くらいに見えます。
有名なこの肖像画は江戸時代後期に書かれたもので、勝手にイメージして書いたのだと思います。
16歳 但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、
但馬国というのは、現在の兵庫県北部の日本海に面した地域の事です。
16歳の時に、ここにいた「秋山」という強い侍を倒したそうです。
17歳 関ヶ原の合戦に加わる
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたと証明する黒田家の文書が存在しています。
武蔵は父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高いと言われています。
21歳 吉岡家との戦い
武蔵は21歳の時に、吉岡一門と数回対決をして、勝利したと「五輪の書」に書かれています。
この戦いは吉川英治『宮本武蔵』をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされており、巌流島と同じくらい有名な戦いです。
小倉碑文(こくらひぶん)に書かれている吉田一門との戦い
武蔵は京に上り「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。吉岡家は代々足利将軍家の師範で、「扶桑第一兵術者」の号であった。足利義昭の時に新免無二を召して吉岡と兵術の試合をさせた。三度の約束で、吉岡が一度、新免が二度勝利した。それにより、新免無二は「日下無双兵法術者」の号を賜った。このこともあって、武蔵は京で吉岡と戦ったのである。
最初に吉岡家の当主である吉岡清十郎と洛外蓮台野で戦った。武蔵は木刀の一撃で清十郎を破った。予め一撃で勝負を決する約束だったので命を奪わなかった。清十郎の弟子は彼を板にのせて帰り、治療の後、清十郎は回復したが、兵術をやめ出家した。
その後、吉岡伝七郎と洛外で戦った。伝七郎の五尺の木刀を、その場で武蔵が奪いそれで撃ち倒した。伝七郎は死亡した。
そこで、吉岡の門弟は秘かに図り、兵術では武蔵に勝てないので、吉岡亦七郎と洛外下松で勝負をするということにして、門下生数百人に弓矢などを持たせ、武蔵を殺害しようとした。武蔵はそのことを知ったが、弟子に傍らから見ているように命じた後、一人で打ち破った。
この一連の戦いにより、吉岡家は滅び絶えた。
引用:Wikipedia
(※)小倉碑文(こくらひぶん)は、宮本武蔵の養子・宮本伊織が武蔵の菩提を弔うために、承応3年(1654年)に豊前国小倉藩手向山山頂に建立した、自然石に刻まれた顕彰碑文。通称「小倉碑」。
24歳 伊賀の鎖鎌の使い手宍戸某、奈良で槍使いの僧・奥蔵院に勝つ
武蔵の弟子が著した「二天記」の伊賀の鎖鎌の使い手宍戸某、奈良で槍使いの僧・奥蔵院に勝った内容があるが、それ以外の証明はなく、史実かどうかは分からない。
29歳 巌流島で佐々木小次郎に勝つ
武蔵と小次郎が決闘を行った日時は、「二天記」によると慶長17年4月13日に行なわれたといわれるが、
それより半世紀前に書かれた立花峯均による『丹治峯均筆記』には武蔵19歳のときとあり、決闘時期には諸説あって実際はよく分からない。
この武蔵と小次郎の戦いは「巌流島の決闘」として、武蔵の決闘の中でも最も有名
この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。
こんが動画も・・・・
これは蛇足・・・・
31歳 大阪冬の陣、翌年の大阪夏の陣に参戦
宮本武蔵は江戸幕府と豊臣家との間で行われた争いである大阪の陣に参加をしていたと言われております。
武蔵は水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられています。
54歳 島原の乱に伊織とともに小笠原忠真の指揮艦として出陣
1637年10月に起こった「島原の乱」に武蔵は養子伊織と参加する。
実は武蔵はこの闘いでは余り活躍できなかったようで・・・
子供の投げた石がスネにあたって、痛さのあまり動けなくなったと手紙に書いています。
「拙者(武蔵のこと)も石にあたり、すねたちかね申故(もうしゆえ)、御目見にも祗候(しこう)仕(つかまつ)らず候(そうろう)」
なんか、最強の剣豪らしくない人間くさいエピソードですね。
逆に伊織は島原の乱で大活躍し、4000石に大出世したうえ、譜代大名小笠原家15万石の筆頭家老にまで上りつめます。
以後、小笠原家の筆頭家老職は代々この伊織の宮本家が世襲することになります。
宮本伊織はよくできた息子だったようです。
宮本 伊織(みやもと いおり)
慶長17年10月21日(1612年11月13日) - 延宝6年3月28日(1678年5月18日)、65歳没)は、江戸時代初期の武士。諱は貞次(さだつぐ)。
剣豪宮本武蔵の養子として知られるが、出自や養子の経緯に関しては諸説ある。
然しながら、昨今の研究調査では、色々な系図が発見され宮本武蔵の実兄、田原久光の次男が伊織であるという説が有力である。
引用:Wikipedia
60歳~ 霊厳洞にこもり、五輪書を作成する
「五輪の書」は宮本武蔵が著した日本を代表する兵法書です。
日本人なら武道をしていない人でも一度は聞いた事があると思います。
「五輪の書」は武蔵が晩年過ごした熊本市の金峰山の霊巌洞にて、執筆し、死の直前に完成されたと言われています。
内容は「地の巻」「水の巻」「火の巻」「風の巻」「空の巻」の五部で構成されています。
負ければ死ぬという実戦の場から武蔵が得た剣術の極意はスポーツやビジネスの世界などで活躍する人を惹きつけるようで、現在でも愛読書をする人が多い事でも知られています。
(ただ、「五輪の書」は武蔵の自筆書は消失されたと伝えられ、現在は写本が残るだけです。
その事からも、武蔵の死後、弟子が創作したという説もあります。)
歌川国芳の浮世絵でこんなものとも戦う武蔵・・・・
歌川 国芳は、江戸時代末期の浮世絵師で、武蔵と色々な化物との戦いを浮世絵にしています。
いくつか紹介をしますね。
クジラ VS 武蔵
山鮫 VS 武蔵
天狗? VS 武蔵
飛衾(のぶすま) VS 武蔵
巨大なお魚? VS 武蔵
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