どうもおがわです。
今回は私が大好きな偉人である山岡鉄舟に関してまとめてみました。
鉄舟は江戸城無血開城に大きな貢献をした偉人として有名ですが、
同時に剣術の達人でもあります。
鉄舟は若い頃より剣術修行に明け暮れ、直心影流と北辰一刀流、更には中西派一刀流を学び
槍術においては忍心流槍術を学びました。
全てにおいて素晴らしい技量を持っていた言われています
後に「一刀正伝無刀流(いっとうしょうでんむとうりゅう)」という自身の流派をおこします。
鉄舟の剣術の理論や考え方は鉄舟の主要な文言のすべてを収録した「剣禅話」という本に書かれています。
また、この本の内容もご紹介できればと思います。
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)
江戸に生まれる。
家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流や北辰一刀流の剣術、樫原流槍術を学び、武術に天賦の才能を示す。
浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客であり、明治維新後は一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。
幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。
江戸無血開城を最終決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜から直々に使者として命じられ官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会して交渉、大枠を妥結して、江戸無血開城の立役者となった。
明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。
引用:Wikipedia
1)山岡鉄舟は超ドデカイ男
鉄舟の体格は身長は188㎝(六尺二寸)、体重は105㎏(二十八貫)です。
江戸時代末の平均身長155㎝ですから、それはそれは大きな人だったようです。
当時の人が鉄舟と町で出会ったら、その大きさに驚いた事でしょう。
私がチェホンマンに会うくらい衝撃だったのかもしれません。
会った事ないけど・・・
こちらの写真は若い頃の鉄舟の全身写真、立派な体格であった事が分かります。
2)山岡鉄舟は若い頃はド貧乏生活
鉄舟は子供の頃は貧乏とは縁のない生活をしていたそうです。
しかし、貧しい山岡家に婿養子として入ってからは、生活が一変してド貧乏生活に突入します。
食事は日に三度食べられることは、ほとんどなく、月に半分は食事にありつけませんでした。
腹が減るので、水を飲んでごまかす事も多々あったそうです。
ボロ屋根に住んで、着る服もボロボロなので、周囲の人から「ボロ鉄」と揶揄されていました。
ただ、元々金に執着がない鉄舟はそんな事は全く気にせず、日々淡々と自己練磨の修行に明け暮れていました。
鉄舟は後に当時の貧乏生活を思い出し、弟子にこのように語ったそうです。
要約すると・・・
飯が食えないくらいで死にはしない。
チッチャイことは気にするな!それ!ワカチコ!ワカチコ!という事でしょうか?
3)山岡鉄舟は幕末三舟の1人と呼ばれる
幕末三舟とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣(江戸幕府の家来)である三人の事です。
具体的には・・・
勝海舟(かつかいしゅう)、高橋泥舟(たかはし でいしゅう)そして山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の事です。
勝海舟と山岡鉄舟に比べて、高橋泥舟の知名度は低いように思いますが、実は泥舟は鉄舟の義理の兄にあたります。
泥舟の妹である英子と結婚したのが鉄舟です。
幕末に徳川慶喜から戦後処理を一任された勝海舟は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋泥舟を推薦するが、高橋は遊撃隊(慶喜の身辺警護にあたる)の隊長を務めており、江戸を離れることができませんでした。
代わりに推薦されたのが、高橋泥舟の義理の弟にあたる山岡鉄舟でした。
鉄舟は命がけで官軍の中の飛び込んでいき、西郷隆盛と江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功しました。
その後、勝が単身で西郷と交渉し、江戸城は無血開城される事となります。
旧出羽庄内藩の関係者が西郷から聞いた言葉をまとめた南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)の中にある次の言葉は、西郷が鉄舟という人物を評した言葉と言われています。
4)山岡鉄舟は三道(剣・禅・書)の達人
山岡鉄舟は剣・禅・書の三道を極めた達人です。
それぞれが達人の域にありましたが、鉄舟の中では三道の極地は繋がっていたのかもしれません。
鉄舟の重要な文言を収録した「剣禅話」には下記のようにするされています。
明治十三年三月三十日、この日わたしは、剣と禅との二道において悟るところがあった。
そして何ごとでも本質は同じなのだとわかったので、書の筆意にこ変化が生じた。
引用:剣禅話
世阿弥は「一芸は万芸に通じる」と言い、宮本武蔵は「一道は万芸に通じる」言いました。
あらゆる道を極めんと進めば、同じ境地に至るのかもしれません・・・
①剣術
若い頃から鉄舟は剣術の修行に励んで、その激しい稽古から「おに頃から鉄舟は剣術の修行に励んで、その激しい稽古から「鬼鉄」とういうあだ名をつけられる程だったそうです。
鉄舟は、剣術は直心影流と北辰一刀流、中派一刀流を、槍術は忍心流槍術を学びました。
後に自身の剣術を一刀正傳無刀流(いっとうしょうでんむとうりゅう)として流派を開きます。
自身の道場「春風館」や、宮内省の道場「済寧館」、剣槍柔術永続社で剣術を教え、多くの弟子を育てました。
鉄舟は剣の達人でしたが、生涯1人も殺めていません。
人を殺めることなく、剣の達人になったのです。
②座禅
鉄舟は暇があれば、座禅を組んでいたそうです。
長徳寺願翁、竜沢寺星定、相国寺独園、天竜寺滴水、円覚寺洪川に参じ、後年は、滴水和尚から印可を与えられました。
鉄舟の禅の弟子に当時の有名な落語家であった三遊亭圓朝(さんゆうてい えんちょう)がいます。
また今北洪川、高橋泥舟らとともに、僧籍を持たぬ一般の人々の禅会として「両忘会」を創設しました。
鉄舟の禅への傾倒は相当なもので、臨終の際も結跏趺坐(座禅の坐り方)をして息を引き取りました。
➂書道
鉄舟は書道の修行にも励みました。
15歳の時から、弘法大師流入木道51世である岩佐一亭に書を学び、52世を受け継ぎ「一楽斎」を号しています。
人から書を頼まれたら、断らず書いたそうで、生涯に100万枚を書したとも言われています。
5)山岡鉄舟は清水次郎長と意気投合
講談や小説、映画などで人気の清水次郎長(しみずのじろちょう)と山岡鉄舟は意気投合し、交流がありました。
明治に入り、江戸から静岡に移り住んだ鉄舟は、地元の侠客である清水次郎長と出会います。
鉄舟は次郎長の義侠心に惚れ込みますが、そのきっかけはこんな事件です。
■咸臨丸事件 ~次郎長の義侠心~
同年9月18日、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見・攻撃され、船に残っていた幕府軍の全員が交戦によって死亡した(咸臨丸事件)。
戦いの後、戦死した乗組員の遺体は明治新政府の咎めを恐れて誰も処理しようとする者がなく、清水湾内に漂い、腐敗するまま放置された。
これを見かねた次郎長は舟を出して遺体を収容し、向島の砂浜に埋葬した。
新政府軍はこの収容作業を咎めたが、
次郎長は
ちなみに次郎長が建立した乗組員のお墓に「壮士墓(そうし=立派な男の墓)」と書いたのは鉄舟です。
鉄舟は義侠心に厚い次郎長を次のように称賛しています。
■Youtube動画「清水の街と次郎長さん」
6)山岡鉄舟は座禅をしながら臨終した
明治21年7月19日に山岡鉄舟は52歳で亡くなりました。
胃ガンを患っていました。
今のように痛みを和らげる薬もなかったでしょうから、鉄舟は亡くなるまで相当な苦しみの中にいたと想像できますが、その最後は見事なものでした。
皇居に向って、座禅をしながらなくなったそうです。
なんという凄まじい精神力・・・
鉄舟の臨終間際に見舞いに行った勝海舟は後にその時の事を語っています。
山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行った。明治二十一年七月十九日のこととて、非常に暑かった。
おれが山岡の玄関まで行くと、息子、今の直記が見えたから「おやじはどうか」というと、直記が「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢人も集まっている。
その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している。
おれは座敷に立ちながら、「どうです。先生、ご臨終ですか」と問うや、鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして、
「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、なんの苦もなく答えた。
それでおれも言葉を返して、「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った。
少しく所用あってのち帰宅すると、家内の話に「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので、「はあ、そうか」と別に驚くこともないから聞き流しておいた。
その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ。
そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ。
なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ。
引用:山岡鉄舟の武士道
かっこよすぎますね!
アラレちゃんでなくとも、かっくいーと言わざる負えません。
勝海舟は鉄舟の見事な武士道精神についてこのように解説しています。
鉄舟は長年の剣・座禅・書の練磨を通じて、悟りを開いていたのかもしれません。
死の恐怖も完全に乗り越えてしまっているように思います。
7)私の好きな山岡鉄舟の名言
「晴れてよし曇りてもよし富士の山 もとの姿は変らざりけり」
鉄舟が明治天皇の家庭教師など、宮仕えをしていた時に詠んだ歌です。
西郷隆盛に推されたにせよ、徳川幕府に仕える身でありながら、明治天皇の臣下になった事で、鉄舟に対する誹謗中傷も少なからずあったようです。
称賛されようが、中傷されようが、自分自身の本来の姿は変わらない。
周りの評価を気にせず、自分の使命に邁進しろという事でしょうか?
同じく、江戸城を無血開城した事により、同僚である幕臣から多くの非難を受けていた勝海舟も同じような名言を残しています。
山岡鉄舟の愛読書「猫の妙術」とは?
江戸城無血開城に大きな貢献をし、剣の達人でもあった山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)はこの猫の妙術を愛読していたそうです。
鉄舟は弟子に自分が持っている他の兵法書は、自由に読ませていました。
ただ、この「猫の妙術」は容易に人には見せなかったと言われています。
それが本当なら
あの我欲のない鉄舟がいけずをする程、老猫が教える「心」の教えが彼にとって重要なものだったのだと思います。
ぜひ、下のブログもあわせて、お読みくださいね。
■山岡鉄舟を知る本
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